ニュージーランドの本

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★Impossible: My Story(仮題『不可能を可能に——スタン・ウォーカー自伝』

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【基本情報】

書名:Impossible: My Story(仮題『不可能を可能に——スタン・ウォーカー自伝』
著者:スタン・ウォーカー(Stan Walker)with マージー・トムソン(Margie Thomson)

版元:HarperCollins Publishers (New Zealand)
出版年:2020年10月  ISBN:9781775541479  
ページ数:352(本文326)+写真ページ32
読者対象:大人向け

テーマ:自伝・ミュージシャン・マーオリ・暴力・性的虐待・胃がん・キリスト教・愛・リジリエンス

【概要】
 第一線で活躍するミュージシャン、スタン・ウォーカーが30歳で発表した自伝。父親からの暴力と従兄弟からの性的虐待に苦しんだ少年時代、教会との出会いがもたらした両親との和解、オーディション番組を勝ち抜いての歌手デビュー、20代での胃がん手術など、波瀾万丈な〈人生の第1章〉が赤裸々に語られる。ベストアルバム"Impossible (Music by the Book)"と同時発売。

【あらすじ】
 オーストラリアのオーディション番組「オーストラリアン・アイドル」を勝ち抜いて、歌手としてメジャーデビューした2009年11月、スタン・ウォーカーは19歳だった。それから約10年、30歳を迎えるスタンが、これまでの人生を振り返り、話し言葉の一人称で語っていく。

■ルーツはマーオリ
 出身地はニュージーランド北島のタウランガ。何百年も前からその地で生きてきたマーオリ部族の一員である。はとこ同士である父と母、兄2人、弟1人、妹1人の家族だが、親族が大勢、近くに住んでいた。スタンは祖父母の家で過ごしたり、親戚に預けられたりしていた時期もある。マーオリのコミュニティではよくあることだ。また、一家は「心機一転」のための引っ越しが多く、ニュージーランドとオーストラリアを行き来する生活だった。オーストラリアで暮らす親族も多かった。

■父の暴力
 少年時代は、貧困と暴力に苦しむ、悪夢のような日々だった。初めて死にたいと思ったのは3歳のとき。父親の暴力に苦しめられ、生きるのがいやになった。その頃のスタンたちの暮らしは、映画「ワンス・ウォリアーズ」(注1)と重なる面があるという。大人たちがホームパーティーで飲んで騒いで歌って楽しむが、やがて必ずけんかが起こり、父が暴れる。映画「ボーイ」(注2)も、自分たちの暮らしにぴったり重なるとスタンは語っている。違うのは、映画の中にはユーモアがあるが、自分たちの暮らしにはなかったことだ。

 父ロスは、安定した職を得られず、アルコールやドラッグに依存し、ドラッグの売人にもなり、幾度となく刑務所に入っている。家では毎日のように妻と子ども(スタンと2人の兄)に暴力を振るっていた。殴る、蹴る、床や壁に頭を叩きつける、踏んづけるなど、ほんとうに激しい暴行だ。スタンたちは、けがをしても病院へはあまり行かなかった。行けば事情を聞かれるからだ。母エイプリルは、自分も暴行を受けながら子どもたちを守ってくれたが、キスやハグをしてくれることはなく、軽い暴力を振るうことがあった。窃盗で服役したこともあった。

 スタンが5歳のとき、母がクリスチャン・シティ教会(1980年にオーストラリアで設立されたキリスト教会)に通い始め、信仰に目覚めた。父もその教会に行き始め、ある日、祈りの時間に気を失い、神を体験した。それまで経験したことのない強烈な出来事だったという。神がともにいてくれることを信じるようになった父は、アルコールやドラッグをやめて、再出発。もちろん、それは長い道のりであり、暴力がおさまるまでには長い年月を要した。

 兄2人とも弟妹とも年が離れていたスタンは、1人でいることが多かったため、父のターゲットになりやすかった。父がオーストラリアの農場に住み込みの仕事を得たときには、スタンも一緒に豚の世話などの仕事をした。父が教会信者の老夫婦の家に預けられたときも、父の希望でスタンが同居した。スタンは長いあいだ父のことを憎み、父が死ぬことを願っていた。しかし、信仰のおかげで父は少しずつ変わっていき、「アイラブユー」といってくれたり、殴ったあとに謝ったりしてくれるようになった。そして、スタンが16歳のときを最後に、父の暴力がやんだ。

■従兄弟による性的虐待
 父の暴力のほかにも苦しみはあった。8歳のとき、同居していた16歳の従兄弟による性的虐待に遭っていたのだ。学校から帰ると、毎日のように部屋で従兄弟が待っていた。最初は体をさわられ、その後セックスを強要された。抵抗したこともあったが逃れられず、誰かに打ち明けることもできず、引っ越すまで9か月のあいだ虐待され続けた。

■学校
 3歳のとき、地元にコーハンガ・レオ(マーオリ語のイマージョン教育をする幼稚園)ができたので、スタンもそこに通い、自然とマーオリ語を身につけた。親族だらけだったコーハンガ・レオを離れ、一般の学校に行くようになって初めて、他の人の暮らしを知った。引っ越しが多かったので、何度も転校した。靴がなく、冬でも裸足で通学した。いじめにも遭った。オーストラリアでは、ニュージーランド人であることを侮辱された。

 高学年以降は、タバコやドラッグに手を出し、学校はよくさぼった。避難所となってくれていた祖父が亡くなったこともあり、手のつけられない不良少年になっていった。スポーツは得意だったが、ユニフォーム代や遠征費を払う余裕がなかったので、大会に出場して活躍するチャンスはなかった。15歳のときに転入したオーストラリアのハイスクールでは、特殊教育のクラスに入れられた。いい先生との出会いもあり、悪い思い出ばかりではなかったが、学校にはなじめず、16歳で退学した。

■盗み
 幼少時から17歳まで、盗みをしまくっていた。他人の留守宅に上がり込んで冷蔵庫やパントリーを開け、勝手にものを食べていた。学校ではほかの生徒の弁当を盗んでいた。万引きもしょっちゅうしていた。服などもごっそり盗むようになったが、決して家に持ち帰らず、秘密の場所に隠していた。一度だけ捕まったことがあるが、小さな盗みだったので、おおごとにはならなかった。盗みは親族も皆やっていた。

■キリスト教
 信仰がないまま、両親が通う教会の活動に参加していた。高校を中退してスーパーマーケットで働いていた16歳のときのこと。教会の祈りの時間に、信者の若い女性キャリーが、長年にわたる性的虐待の被害を告白した。彼女はレイプという言葉を使った。それを聞いたスタンは、自分も同じ目に遭っていたのだと気づくとともに、キャリーがとてもしっかり生きており、「赦す」ことを知っていることに衝撃を受けた。そのとき生まれて初めて、神はいるかもしれないと思った。その後、友だちとの雑談中に初めて自分の体験を口にしたとき、隠し続けてきた過去の出来事から解放された気がした。

 同じ頃、親戚が住む町にあるギャングガラー(Ganggalah)教会を紹介され、顔を出した。アボリジナルの夫妻が興したこのキリスト教会は、民族融和を目指し、先住民のリーダーを育てることに力を入れている。さまざまな民族の若者が集う中、誰もが尊重されており、スタンはすぐになじんだ。研修センターでの長期コースにも参加し、実習ではアボリジナルの人びととのふれあいや学校訪問で充実した時を過ごした。ところが、同じ受講生の少女と恋に落ちてルール違反を犯したことから、途中で追放される。それでも自分を友だちだと思い続けてくれる仲間がユースキャンプに誘ってくれたので、参加。半ばふてくされ、挑戦するような気持ちだったスタンだが、祈りの時間に神を体験し、クリスチャンになる。17歳のときだ。

■性について
 性的に興奮しやすい体質のようで、幼い頃からさわられるのが好きだったが、それがとてもいやでもあった。快さと汚らわしさを同時に感じていた。

 両親やまわりの大人たちからは、性教育は全くなかった。まわりには十代で親になる者が多かったので、自分もそうなるのだろうとぼんやり思っていた。避妊についての知識もなく、避妊せずにセックスをして、相手を妊娠させたことがある。スタンの首のタトゥの文字は、結局生まれてこなかった子どもの名前である。

 同性愛のことも理解しないまま育った。自分は男性にレイプされていたから「ゲイ」だと思い込んでいたが、成長するにつれ、そうではないことに気づいていった。自分が育った環境では、「ゲイ」は毛嫌いされ、男は男らしく、強くあれと叫ばれていたが、それにも疑問を感じる。強さの定義を考え直すべきだろう。

 キャリーの告白に勇気を得て、性的虐待を受けていたことを両親に話すと、両親は取り乱すも、ハグしてくれた。訴訟を起こすことも考えたが、警察の取り調べがつらくて、見送った。泣き寝入りしている性被害者はたくさんいるのだろうと、そのとき気づいた。実際、同じような被害に遭っていた者がまわりに何人もいたことが、徐々にわかっていった。

■音楽
 歌はずっと好きだった。マーオリのコミュニティや教会では、歌が身近にあった。12歳の頃からテレビのオーディション番組「オーストラリアン・アイドル」を見て、憧れを感じていた。15歳で父方の祖母を亡くしたとき、初めて自分で歌を作り、ギター弾き語りをYouTubeにアップした。
〈以下略〉

※注1
"Once Were Warriors"(リー・タマホリ監督/ニュージーランド/1994年 *日本での公開は1995年9月)
原作は1990年に発表されたアラン・ダフ著の小説。都会のスラムに生きるマーオリの一家が描かれている(邦訳『ワンス・ウォリアーズ』真崎義博訳/文春文庫/1995年)

※注2
“Boy”(タイカ・ワイティティ監督/ニュージーランド/2010年 *日本での劇場公開なし。2021年12月よりネット配信)*片田舎で貧しく暮らすマーオリの少年〈ボーイ〉が主人公のコメディ。数年ぶりに父が帰宅し、ボーイは喜ぶが、やがて失望。父はとんでもない甲斐性なしだった。

 

【感想・評価】
 日本ではほぼ無名のスタン・ウォーカー。私も全く知らなかったが、版元のSNSで本書が紹介されているのを見つけ、マーオリの著名なミュージシャンの自伝であることに興味を引かれて手に取った。巻末の謝辞から判断すると、ライターのマージー・トムソンが、スタン・ウォーカーのトークを聞き書きしたものだと思われる。

 少年時代の苦しみの部分は衝撃的で、読むのがつらくなるが、結びの言葉はなんともさわやかで、前向きに響く。父親の更正、自身のミュージシャンデビューのあとも、さまざまな葛藤や健康上の問題を抱えてきたが、胃がんを乗りこえ、音楽活動も10年を超えて、トンネルを抜けたような気持ちなのだろう。30歳は若いけれど、最初の自伝を書くタイミングとしては完璧だったといえる。

 貧困や暴力や虐待の事実はショッキングだが、スタンのまわりには溢れていることだという。私たちにとっても他人事ではない。暴力は連鎖するものなのだ。被害者をサポートすることはもちろん、加害者のおびえや苦しみを理解することも必要だと、本書を読んではっきりと気づかされた。

 それにしても、ここまで赤裸々に自分をさらけ出す内容の本はなかなかないと思う。過去の自分と同様の苦しみを抱えた人たちを勇気づけたいという、強い思いが伝わってくる(瀬戸内寂聴さんに通ずるものを感じたのは私だけだろうか……)。YouTubeを検索すると、胃がん手術後のスタンのインタビュー動画がたくさん見つかるが、そのどれを見てもフレンドリーで誠実な人柄が感じられ、本書の内容により説得力を感じた。

 スタンや父が神を体験する場面は、正直なところ、私にはピンとこなかった。スタン自身も、信仰のくだりは理解できない人も多いだろうと最終章に書いている。とはいえ、神という味方を得ることや、教会というコミュニティに支えられることがパワーになるというのは理解できるし、神秘的な体験も、あり得ることなのだろうと思う。

 ミュージシャンとしての活躍の部分は、あらすじではだいぶ端折ってしまったが、楽曲に込めた思い、ステージングについて、共演したアーチストについてなどなど、ポピュラー音楽ファンにとっても興味深い内容がたっぷり書かれている。最近の音楽活動は、マーオリであることを強く意識したものになっているようだ。マーオリのプロテスト集会でスピーチしたり歌ったりと、社会的な活動にも積極的に参加している。

 本書の出版から約1年半が経った今年3月には、YA向けバージョンも刊行された。こちらは暴力や虐待のことはかなり端折ってあり、ソフトな印象で読みやすいとは思う。だが、何もかもが赤裸々に書かれた大人向け(つまり本書)のほうを、私は高く評価している。

 過去を消すことはできないことも、今後も試練があろうことも自覚しつつ、前向きに生きているスタン・ウォーカー。彼の半生を知ることで勇気づけられる読者が、日本にもたくさんいるに違いない。

【本書出版後のスタン・ウォーカーの動向】
◎最終章で「いつか父親になりたい」と書いていたスタンだが、本書刊行の翌年に結婚して、現在、妻が子どもを身ごもっている。

◎2021年、全曲マーオリ語のアルバム Te Arohanui をリリース。

◎2022年に予定されていたツアーは、コロナ禍の状況を鑑みてキャンセルされた。

◎2022年3月発表の〈今年のニュージーランダー賞〉では、ニュージーランドの未来を担うリーダーの一人と評価され、ヤング部門の最終候補に選ばれた。

 

【著者紹介】
スタン・ウォーカー
 1990年生まれのシンガーソングライター。ニュージーランド北島タウランガ出身のマーオリ人。英語とマーオリ語のバイリンガル。幼少時からニュージーランドとオーストラリアを行ったり来たりの生活。アルバイト生活をしていた18-19歳のときに、オーストラリアの音楽オーディション番組に出場。パワフルかつ美しい歌声で予選を勝ち抜き、グランプリに輝いて歌手デビュー(2009年11月)。オーストラリアとニュージーランドで大人気となる。作詞作曲も手がけるほか、映画出演、慈善活動など、活動の幅を広げていく。遺伝性の胃がんで2017年に胃の摘出手術。本書の刊行後に婚約し、2021年に結婚。2022年〈今年のニュージーランダー賞〉ヤング部門の最終候補者。

◎代表曲:"Black Box"(2009)、"Take It Easy"(2012)、"Aotearoa"(2014)、”Give” (2019)など

◎公式ウェブサイト
https://stanwalker.com.au

◎Sony Music New Zealand ウェブサイト内スタン・ウォーカー紹介ページ
https://www.sonymusic.co.nz/artist/stan-walker/

マージー・トムソン
 ウェリントン出身の作家、ジャーナリスト。1990年代より編集者、ライターとして雑誌や書籍出版に関わる。2012年オークランド大学でクリエイティブライティングの修士号を取得。現在は代作者または共作者としての書籍執筆、ノンフィクション作品の執筆などで活躍している。